ANMELDEN骨の谷を進むほど、イセラの足取りは遅くなっていった。道に迷っているわけではない。むしろ、忘れたはずの景色が一つずつ戻ってきているようだった。白く乾いた骨の斜面を越え、岩壁が細く裂けた場所へ入るたび、彼女の黒豹の耳が小さく動く。鼻先が風を拾い、琥珀色の瞳が足元の石や壁の傷を確かめる。そのたびに立ち止まり、しばらく何も言わず、また歩き出す。リュゼルは少し後ろを歩いていた。先頭を譲ったのは、道を知っているからだけではない。ここから先は、イセラの場所だと思った。足元には、誰かがかつて通った痕跡が残っている。灰色の岩へ半ば埋もれた布片。長い年月で色は失われているが、端に赤い刺繍糸が一本だけ残っていた。イセラがしゃがむ。指先で布へ触れようとして、止まった。「知ってるのか」リュゼルが尋ねると、彼女はしばらく答えなかった。「ハルクの外套だ」低い声。「赤い糸を縫ったのは、ミアだった」誰なのか説明はしない。それでも、それが仲間の誰かであることは分かった。イセラは布を拾わなかった。ただ一度だけ指先で端を撫で、立ち上がった。少し先では、折れた矢が骨の間へ刺さっていた。鏃は錆びている。軸の木は腐り、半分ほどしか残っていない。「これは?」リュゼルが訊く。イセラは見ただけで分かったらしい。「セラド」「弓を使ってた?」「ああ」短く答え、矢の横へしゃがむ。「下手だった」「弓兵なのに?」「本人は上手いと思ってた」わずかに口元が動いた。笑みとは言えないほど小さい。それでも、これまでのイセラにはなかった表情だった。「止まってる標的には当たった。動いてる相手には、よく外した」「それは結構まずいな」「だから私が先に脚を切ってた」「なるほど」「本人は『連携だ』って言ってた」今度こそ。イセラの口元がほんの少しだけ緩んだ。すぐに消えた。その後も痕跡は続いた。石の隙間に挟まった獣人用の耳飾り。小さな牙を三本束ねた首飾り。切れた革紐。竜人が身につける爪飾り。どれも朽ちかけている。どれも。イセラには分かる。「ここを通った」彼女が呟く。「間違いない」声が少しずつ固くなっていた。リュゼルの墓碑紋は、谷へ入った時から熱を持ったままだった。耳に聞こえない声が、絶えず頭の奥へ流れている。《暗い》《帰りたい》《誰か》
イセラの視線は、リュゼルの右腕から離れなかった。黒銀色の墓碑紋は、灯石の青白い光を受けても光らない。むしろ周囲の明かりを吸い込むように沈み、皮膚の下へ食い込んでいる。骨の谷を吹き抜ける冷たい風が外套の裾を揺らし、積み上がった無数の骨が微かに擦れ合った。かさり、かさりと乾いた音が続くたび、リュゼルの頭の奥では、まだ消えきらない死者の囁きが薄く重なっていた。イセラはその音とは別の何かを聞いているように、黒豹の耳を後ろへ伏せた。「死人を連れてる」もう一度、低く言う。「一人や二人じゃない」リュゼルは腕を下ろしかけたが、イセラの視線がそれを追ったため、止めた。「連れてるって言われても」「とぼけるな」湾曲刀へ手が伸びる。抜いてはいない。それでも、いつでも抜ける位置だ。イセラは一歩だけ距離を取った。「屍喰らい」その名を聞いた瞬間、ネフィリアの表情が変わった。「何ですって?」声が冷える。イセラは彼女へ視線を移さない。「奈落で昔から言われてる怪物だ」「怪物?」リュゼルが眉を寄せる。「死体を食う。死んだ奴の力を奪う。剣士を食えば剣を使えるようになり、術師を食えば術を盗む。何百人、何千人と食って、最後には自分が誰だったかも分からなくなる」イセラの琥珀色の瞳が、墓碑紋を睨むように細まる。「身体中に黒い墓印が広がって、最後は人間の形すら失うって話だ」骨の谷の空気が、一段冷たくなった気がした。リュゼルは反射的に右腕を見る。紋様は手首から前腕へ伸びている。最初に現れた頃より、明らかに広がっていた。古代魔獣ヴァルディオスを看取った時。その力と記憶を受け継いだ時。さらに死者溜まりへ近づき、無数の声を聞くようになってから、黒銀色は以前より濃くなっている。最後には人間の形すら失う。その言葉だけが、嫌に耳に残った。「違うわ」ネフィリアが前へ出る。彼女の足元から黒紫色の影が薄く広がった。攻撃ではない。ただ、リュゼルとイセラの間へ割り込むように。「彼は奪っていない」イセラがようやくネフィリアを見る。「随分と信じてるんだな」「知っているだけよ」「何を」「彼がどうやってその力を得たのか」イセラの耳が僅かに動く。「死人本人に聞いたのか?」「そうよ」即答だった。今度はイセラが黙った。骨の谷に、遠くで骨片が崩れる音が響く
血に濡れた大剣は、持ち主を失っていた。石床へ深く突き立った刃の脇に、半ば白骨化した巨躯が横たわっている。鎧の隙間から覗く骨格は人間より明らかに大きく、砕けた兜の左右には角らしきものが残っていた。死んでからどれほど経つのか分からない。それなのに刃へ付着した黒い液体だけは乾いておらず、灯石の青白い光を濡れたように返している。だが、リュゼルの目を奪ったのは大剣でも死体でもなかった。その向こうに、途方もなく広い谷があった。岩壁に囲まれた空洞という言葉では足りない。天井は灯石の光が届かないほど高く、左右の壁も闇の奥へ消えている。谷底を埋め尽くしているのは土ではなく、骨だった。獣の肋骨、人間の頭蓋、角を残した魔族の骨格、翼膜だけが黒く乾いた竜種の残骸。それらが幾層にも積み重なり、白灰色の斜面となって遥か奥まで続いている。そして、その骨の海の中央で。一人の女が戦っていた。褐色の肌。顎のあたりで鋭く切り揃えられた黒髪。頭頂から生えた丸みのある黒い耳は、獣のそれだった。腰の後ろから伸びる長い尾が、身体の動きに合わせてしなやかに揺れている。獣人。女は二本の湾曲刀を握っていた。右の刃で襲いかかる骨蜘蛛の前脚を受け流し、左の刃を胴体の下へ滑り込ませる。硬い外殻が擦れ、火花が散った。刃先が奥に隠れた黒い核を正確に穿つと、巨大な蜘蛛の身体が一瞬硬直し、そのまま何百もの骨片へ崩れ落ちる。「速い……」リュゼルは思わず呟いた。実戦経験の差は見ただけで分かった。踏み込む位置。刃の角度。次の敵を見る視線。一つの動作が終わる前に、すでに身体が次へ向かっている。無駄がない。それでいて機械的でもない。足場となる骨が崩れることまで計算し、滑るなら滑る動きのまま刃を振るう。自分より遥かに強い。少なくとも今のリュゼルが、正面から一対一で勝てる相手には見えなかった。それでも。「まずいな」女の左腕から血が流れている。肩口から肘にかけて大きく裂けており、黒い革鎧が赤黒く濡れていた。動くたびに傷口が開き、血が指先を伝って湾曲刀の柄へ落ちている。骨蜘蛛はまだ十を超えていた。死者溜まりの魔力を吸って動いているのか、身体の大部分は獣や人の骨を無造作につなぎ合わせたような形をしている。一体倒しても、周囲の骨山から新たな脚が突き出してくる。「行くぞ」リュゼルが踏み出した。
城を出てから、およそ二時間が過ぎていた。奈落に太陽はなく、空の色で時刻を測ることもできない。それでもリュゼルは歩数と休憩の回数、灯石の燃え方を身体に刻み込むようにして時間を数えていた。最初の一時間ほどは、城の周囲と大きな違いのない岩の通路が続いた。湿った灰色の壁、ところどころに群生する青苔、天井から落ちる冷たい水滴。シュカたちが話していた赤い岩場も通り抜けた。地熱を含んでいるらしく、掌を当てると人肌ほどのぬくもりがあり、そこだけはわずかに硫黄に似た匂いが漂っていた。ネフィリアは何も言わず歩いている。歩幅は一定だった。少なくとも、そう見えるようにしていた。リュゼルは前を向いたまま、背後から聞こえる足音へ意識を向けた。右、左。右、左。革靴が石を踏む音は乱れていない。ただ、最初より一歩ごとの間隔がわずかに長くなっている。呼吸も静かだが、時折鼻から深く息を吸っていた。まだ休ませるほどではない。そう判断し、リュゼルは自然なふりをして歩く速度を少し落とした。すぐ後ろから声が飛ぶ。「私に合わせているの?」「道が悪くなっただけだ」「今までと変わらないけれど」「石が滑る」「乾いているわ」「細かい砂がある」「ないわね」間を置いてから、リュゼルは振り返った。「元気そうだな」ネフィリアは紫紺の瞳を細めた。「喧嘩を売っているのなら買うわよ」「元気ならいい」それだけ言って前へ向き直る。背後で小さく息を吐く音がした。怒ったのか、呆れたのかは分からない。ただ、歩調はそのままになった。やがて通路の幅が広がり始めた。最初に変化へ気づいたのは匂いだった。湿った土とも、腐肉とも違う。乾いた骨を砕いた時に漂う、わずかに粉っぽい匂い。リュゼルは足を止める。灯石を高く掲げた。青白い光が壁面を滑る。そこから何かが突き出していた。白い。細長い。「骨……」近づく。岩壁へ半ば埋もれるように、人間ほどの長さを持つ骨が一本突き出している。大腿骨に見える。だが、太い。人間のものより一回り大きい。さらに灯石を横へ向ける。一本だけではなかった。壁のあちこち。石の割れ目。床。天井近く。数えきれない骨が、岩と一体化するように埋まっている。ネフィリアが隣へ並んだ。「魔物だけではないわね」「ああ」すぐ近くの壁には、明らかに人間の頭蓋骨が
探索に持ち出す道具を長卓へ並べ終えた頃には、広間の床へ淡い紫の光が落ちていた。天井に埋め込まれた王域の結晶灯は時間によって明滅するらしく、眠りから覚めてしばらくすると、夜を模した青黒い色から柔らかな薄紫へ変わる。地上の朝日とはまるで違う。それでも、いつまでも同じ暗闇だった奈落に目安となる光があるだけで、人の身体は不思議と時間を思い出すらしい。子どもたちは食事を終え、水路で顔を洗い、三匹の月角兎は広間の隅に積まれた青苔へ鼻先を埋めていた。リュゼルは長卓の上に水袋を二つ置き、縄を巻き直した。保存食、火口箱、薬草、包帯、解体用の小刀、革手袋、予備の灯石。昨日作った地図は湿気を避けるため革筒に収め、黒鎖短剣は腰へ差してある。死者溜まりそのものへ踏み込むつもりはないが、何が起こるか分からない以上、持てるものは持っていくべきだった。問題は、誰が行くかだった。「俺一人で行く」革紐を締めながら口にした途端、向かい側から冷たい声が飛んだ。「却下よ」リュゼルは顔を上げた。ネフィリアは長卓の反対側に立ち、両腕を組んでいる。封印が完全に解けた今、手首にも足首にも黒い枷はない。数百年にわたって彼女を柱へつないでいた六本の鎖も消え、白い肌には薄い傷痕だけが残っている。黒紫色の簡素な衣服は王域が生み出したものらしく、動きやすい細身の長衣に膝下までの革靴という姿だったが、その立ち方には拘束されていた頃とは違う静かな威厳が戻っていた。「まだ何も説明してない」「説明する前から分かるもの。あなたが一人で死者溜まりへ行こうとしているのでしょう」「中には入らない。周囲を見るだけだ」「昨日も同じようなことを言っていたわね」「実際、そのつもりだ」「あなたの『そのつもり』ほど信用できないものを、私は今のところ知らないわ」子どもたちが朝食の後片づけをしながら、二人のやり取りへ視線を向け始めた。シュカに至っては、水で濡れた皿を布で拭く手を完全に止めている。リュゼルは子どもたちの前で言い争うつもりなどなかったが、ネフィリアの表情を見る限り、こちらが折れなければ静かに終わる可能性は低そうだった。「城を空けるわけにいかないだろ」「なぜ?」「なぜって」「王域の結界は私が外へ出ても消えないわ」「でも、城から離れるほどあんたの魔力は弱くなる」ネフィリアの眉がほんのわずかに上がる。事実だっ
水音がするだけで、かつての地下神殿とは別の場所に思えた。《王域形成》が発動する以前、祭室の奥にあった水場は、岩の裂け目から濁った雫が落ちるだけの頼りないものだった。革袋を満たすにも長い時間がかかり、底には細かな砂が沈んだ。今では白灰色の石壁に沿って細い水路が走り、透き通った水が絶えず流れている。指を浸せば冷たく、鼻を近づけても腐臭も鉱物臭もない。崩れかけていた天井は継ぎ目のない黒銀の梁に支えられ、亀裂の奥から魔物が這い込んでくる気配も消えていた。城、とネフィリアは呼んだ。リュゼルには、まだその言葉が自分たちの居場所を指しているという実感がない。王座を思わせる高台があり、広間があり、寝室として使える小部屋がいくつも生まれた。外周には淡い紫色の膜のような結界が張られ、夜ごと聞こえていた獣の唸り声も遠ざかった。石床には冷気を和らげる熱が通り、裸足で歩いても以前ほど足裏が冷えない。それでも、目の前の木皿に載っている肉は増えなかった。リュゼルは切り分けた岩鎧猪の燻製肉を見つめながら、残量を頭の中でもう一度数えた。闇爪狼の干し肉が二袋半。岩鎧猪が一頭分には少し足りない程度。地下茸は食用確認済みのものが十数本。灰牙傭兵団が残した硬い乾燥パンは、子どもたちが無理なく食べられるよう水で戻せば三日分ほどになる。月角兎のために集めた青苔と柔らかな根草も、この周辺では十分な量が採れない。人が七人。月角兎が三匹。満腹を求めなければ、五日。さらに切り詰めれば七日。しかし、切り詰めた先に何があるのか。リュゼルはそこで計算を止めた。「リュゼル」呼ばれて顔を上げる。広間の反対側に座っていたネフィリアが、紫紺の瞳で彼の手元を見ていた。知らないうちに、肉を自分の皿から除けていた。一切れ。二切れ。脇へ寄せてある。「食べて」「あとで食う」「その言い方をする時は、食べないつもりでしょう」「食料の残りを見てただけだ」「それと、あなたの食事を減らすことに何の関係があるのかしら」言葉に詰まった。その間に、向かい側で衣擦れの小さな音がした。一番幼い少女が、自分の皿から肉をつまんでいる。五つか六つほどの年齢にしか見えない小さな手で、燻製肉を半分に裂こうとしていた。固い肉は簡単には千切れず、細い指先が赤くなる。隣に座るシュカの皿へ移そうとしているのだと気づき、リ







